著書 | バカの壁 |
著者 | 養老 孟司 |
カテゴリー | 文学・評論 > エッセー・随筆 ノンフィクション |
出版社 | 新潮社 |
発売日 | 2003/4/10 |
Amazonカスタマーレビュー | (3074) |
- 異なる視点から物事を理解したい人におすすめです。理由は、男性と女性が同じドキュメンタリーを見ても異なる反応を示す例があり、情報に対する姿勢の違いが描かれているからです。
- 現実体験の重要性を認識したい人におすすめです。理由は、言葉だけでは伝わらない現実があり、実際の体験を通じて初めて得られる理解が強調されているからです。
- 個性と社会の関係について考えたい人におすすめです。理由は、現代社会での「個性」の要求が実際には矛盾をはらんでいる点が指摘されており、真の個性とは何かを再考するきっかけを提供しているからです。
男子と女子、同じビデオでここまで違う?
- 、男子学生と女子学生が同じビデオを見ても反応が異なるのは、情報に対する姿勢の違いから生じる。
- 、言葉だけでは伝わらない現実があり、体験を通じて初めて得られる理解が重要。
- 、知識と常識の違いを認識し、科学的知識を絶対視しない態度が大切。
まず、大学の講義での一例が興味深いです。同じドキュメンタリー番組を見ても、男子学生と女子学生の反応が全く異なるのは驚きです。男子学生が「知っている」と思い込み、女子学生が「新しい発見」をしたと感じる違いは、単なる知識の有無ではなく、情報に対する姿勢の違いから生じるという点が面白いです。男子が出産について実感を持ちたくないために、積極的に情報を遮断しているという見方は、人間の心理の深層を垣間見せてくれます。
次に、「話せばわかる」という考え方の限界についてです。説明すれば理解できるという信念がいかに浅はかであるかが、出産の痛みを例に挙げて強調されています。言葉だけでは伝わらないことが多く、現実の体験を通じて初めて得られる理解があるというのは、非常に説得力があります。若い世代が「ビデオを見たからわかる」と考えがちな傾向は、現実を直視せずに簡単に理解した気になることの危険性を示しています。
最後に、「常識」と「知識」の違いを見失うことの怖さが述べられています。現代社会では、膨大な情報を持つことが「わかっている」ことと混同されがちです。しかし、本当に理解するためには、客観的事実の存在を信じる信仰を疑うことが必要です。この視点は、科学的知識を絶対視することへの警鐘として重要です。全てが確実ではない中で、科学や常識をどう受け止めるかという態度が問われています。
男子と女子、同じ景色を見ても違う色を映す心の窓。知っていることの影には、知らないことの深い闇。言葉の彼方にある真実に手を伸ばすとき、初めて現れる光。
個性と共通性の矛盾
- 、現代社会で「個性を伸ばせ」という要求は、共通了解を重視する文明の発展と矛盾している。
- 、実際には個性を強調すると精神病院に送られるような行動とされるため、社会は「個性」を求めていない。
- 、教育や職場での「個性」の要求が「マニュアル人間」を生み出し、若者たちに矛盾した状況を強いている。
まず、「個性を伸ばせ」という現代の教育や社会の要求が、実際には矛盾している点が面白いです。共通了解を追求し、文明が発展してきたにもかかわらず、突然「個性」を重視するようになったのは、おかしいと感じます。個性の強調は、現実とそぐわない無責任なスローガンに過ぎないと指摘しています。
次に、実際に「個性」を存分に発揮する人々が精神病院に送られる例が挙げられています。これは、社会が本当に求めているのは「個性」ではなく、「共通了解」に基づいた行動であることを示しています。現代社会では、独自の行動が許容される範囲は非常に狭く、個性を強調する言葉が矛盾していることがよくわかります。
最後に、教育現場や職場での「個性」の要求が、結局は「マニュアル人間」を生み出している現状が興味深いです。個性を発揮することを求められながらも、実際には共通のルールに従うことが強制されるという矛盾が、若者たちにとっては非常に難しい状況を作り出しています。真の個性とは何かを再考する必要があると感じます。
個性の影は共通の中に消え、自由を求めて矛盾に囚われる。社会が求めるは均一な調和、個性の叫びは届かぬままに。真の自分を探す旅路、答えは遠く、心の奥に隠される。
個性と情報の真実
- 、個性は脳ではなく身体に宿るものであり、現代の個性観とは逆の視点を提供する。
- 、人間は日々変化するが、情報は不変であり、それが私たちの認識を支える。
- 、情報化社会では、自己同一性を保ちつつも、常に変化する自分を認識することが重要。
まず、「個性」は脳ではなく身体に宿るという視点が興味深いです。現代では個性を脳の特性と捉えがちですが、実は身体が持つ特性こそが個性の本質であると考えられます。これは、私たちが情報をどう受け止めるかにも大きく影響します。
次に、「万物は流転する」が示すように、人間は常に変化していますが、情報は不変です。情報が変わらないからこそ、私たちはそれに基づいて理解を深められるという点が強調されています。日々変わる自分と変わらない情報の対比が、私たちの認識を形作っています。
最後に、情報化社会における自己同一性の追求についてです。現代では、「私は私」と思い込むことで自己同一性を保っていますが、本来は常に変化し続ける存在であることを忘れてはいけません。情報が不変であることを理解しつつ、自分自身の変化も認識することが大切です。
日々変わる私の姿、流れる時の中で変わらぬ情報が輝く。身体に宿る個性の光、常に変化する心の影。自己同一性の追求の果てに、真実の個性を見つけ出す旅。
現代日本の「あべこべ現象」とその影響
- 戦後の日本では、「身体」を忘れて脳だけで動くようになってしまった。
- 、企業がリストラを行い、かつての共同体の論理が崩壊しつつある。
- 無意識の重要性が軽視され、意識中心の社会が問題を引き起こしている。
現代の日本人は、「身体」を忘れ、脳だけで動くようになってしまった。戦後、日本は軍隊が消え、身体の使い方を個人が理解しなくなってしまった。オウム真理教事件も、その若者たちが身体と向き合う方法を求めた結果の一例である。
さらに、日本の社会には「共同体」の問題も深刻に存在する。企業がリストラを行い、かつての共同体の論理が壊れつつある。日本的な共同体の論理は、現代の機能主義と対立している。その結果、社会の中で個々の共同体が閉じられた世界を形成し、常識が欠如している状況が生まれている。
最後に、無意識の重要性を忘れてしまったことも問題である。現代社会では無意識の存在が軽視され、意識の連続性のみが重視されている。この意識中心の世界観が、身体、無意識、共同体の問題を見過ごさせ、現代の社会問題を引き起こしている。
脳だけで動く時代、身体を忘れた日本。戦後の影が伸びる中、無意識の静けさが消えてゆく。意識の波に呑まれながら、失われた身体の声を求めている。
賢さと脳の関係
- 賢さやバカさは脳の構造ではなく、社会的適応性で測られる。
- 特定の能力に秀でている人は、社会生活に適応しにくいことが多い。
- 脳の働きはニューラル・ネットで説明でき、学習させることが可能。
賢さやバカさは脳の構造とは関係がなく、社会的適応性がその基準になる。脳のシワの数や大きさは賢さに影響しない。脳の機能は均質であり、特殊な能力があるからといって賢いわけではない。
一部の特殊な能力を持つ人は、社会生活に適応しにくいことが多い。映画『レインマン』のような記憶力の達人でも、実生活では困難を抱えている。特定の能力に秀でている人は他の面で欠如していることが多い。
脳の働きはニューラル・ネットというモデルで説明できる。神経細胞が刺激を受け、閾値を超えると反応する仕組みが再現されている。このモデルにより、機械に学習させることが可能であり、人間の脳の働きに近づけることができる。
脳のシワに刻まれる記憶の謎、数字の雨が降り注ぐ、百桁の夢、誰も知らない世界へと旅立つ心の扉、天才と凡人の境界線、記憶の迷路で踊る光と影
教育の偽りと現実
- 現在の「自然教育」や「ゆとり教育」は形式的なものであり、実際には子供たちに本当の自然や実体験を教えていない。
- 教師が子供たちではなく、管理者や親の顔色をうかがっており、本来の教育が行われていない現状が問題。
- 教育者は自分の生き方を見習わせるべきであり、自分が本当に面白いと思うことを教えることが重要。
教育の現場では「自然教育」や「ゆとり教育」が盛んに唱えられていますが、実際には形だけのものが多く、子供たちに本当の自然や実体験を教えているわけではありません。例えば、芋掘りのイベントでさえ、子供たちが掘りやすいように最初から掘り返していることが実態です。
厳しい教育者が少なくなり、「でもしか先生」が増えています。彼らは子供たちに向き合うのではなく、管理者や親の顔色をうかがっているため、本当の教育が行われていない状況です。これにより、子供たちへの影響が懸念されます。
教育は本来、自分自身が生きていることに夢を持ち、その情熱を子供たちに伝えるべきですが、現代の教育者はその役割を果たせていません。教師自身が立派に生き、自分の生き方を見習わせることが重要であり、学生に対して本当に面白いと思うことを教えるべきです。
偽りの自然、しおれた芋の葉、形だけの教育、子供の未来に映らぬ夢。教師たちは上の顔色を伺い、真の学びは消えゆく。空虚な教室に響く嘆き、信念なき指導の影。
一元論と合理化の限界を超えて
- 現代社会の合理化は人々の考える力を奪い、幸福の再定義が必要。
- ワークシェアリングと所得の再配分が公平性を保つ鍵。
- 経済の「実」と「虚」を区別し、エネルギーを基盤とした実体経済を重視することが重要。
現代社会の合理化は、効率を追求するあまり、人々の考える力を奪い、人生の本質を見失わせている。機械化によって労働が減り、余暇が増える一方、その時間をどう活用すべきかを真剣に考えてこなかった結果、幸福とは何かを再定義する必要がある。
インドのカースト制が示すように、ワークシェアリングの概念が重要であり、合理化の末に生まれる余剰の時間をどう分配し、活用するかを真剣に考えるべきだ。現代社会では、機能主義に基づいた仕事の分配と、所得の再配分が公平性を保つための鍵となる。
経済の「実」と「虚」を区別する必要があり、経済活動が単なる金銭のやり取りではなく、実体経済に根ざしたものであることが重要だ。虚の経済に惑わされることなく、エネルギーを基盤とした実体経済を重視することで、持続可能な社会を築くことができる。
人間の欲望は果てしなく、合理化の道をひたすら歩む。それは楽園を求める旅か、それとも迷宮への招待状か。答えは風の中。
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